學志館の授業の特徴は毎回の授業で生徒に限界を求めるものです。生徒の学習ラインが教える私たちの中にキャッチされるとその生徒が次のステップに進むまで、生徒が脇道に逸れないように見守り時には叱咤激励します。塾では生徒は来て勉強を教わる、つまり自分で勉強するのではなく人に教えられて勉強するから自立的な勉強ではない。自分一人でするのが自立的な勉強だという人もいます。他の塾ではそういう面もあるかもしれません。しかし、學志館では
本当の自立的勉強をするための「心の筋肉」や学習に向う姿勢から基礎的学力・・・この基礎的学力をないがしろにしたことが「ゆとり教育」失敗の原因だと思います。総合学習という教科の枠を取払うことによって実際に子どもたちに生きる力を育む機会を与えよう、という意図は良かったかも知れませんが、総合学習をする前提となる基礎学力を軽視したまま、つまり学習の土台を築くことなく、土台の上に家を建てようとしたため、土台のしっかりしない“砂上の楼閣”のような家が出来てしまった。と言うことではないかと考えます。ただし、「ゆとり教育」が推進された背景には勉強することが単に受験のためだけの目的に特化されてしまい、今では死語となっている受験地獄という言葉もよく使われていた頃のことです。受験地獄の反動で「ゆとり教育」が行われ、再びその反動で「受験地獄」が復活するのでは教育の後退に過ぎません。
本来なら、国語を勉強することで、つまり、漢字の読み書きや意味を学習し、様々な文章を読み文章の構造や作者の意図を性格に理解することで、古今東西の優れた書物を正確に読み鑑賞することができるようになり、自分自身の内的世界を広げることが出来る。英語を学習することで、英語圏で出版されている書物から雑誌・新聞に到るまで将来目を通すことができるようになり、島国に住んでいる自分が世界の人と直に出会うことも出来る。数学を学習することでこの世界がいかに数学的な思考によって作られているか。建物ひとつとっても数学が存在しなければ立っていることすら困難であることを、等々。勉強することの目的は幾らでもあります。その可能性を受験という一事に限定してしまうことは勉強本来の姿ではないでしょう。もちろん塾としては生徒の学校の成績を上げること、希望の学校に入学できる学力を身につけて貰うことが大事なことですが、だからこそ、そのためには学習ライン(段階的に学習を積上げていく学習法)や学習へ向う姿勢・態度の大切さを強調したいと思います。
教育界が[受験地獄→ゆとり教育]というサイクルに巻き込まれることは
いたちごっこではなく、教育の後退であるという考えにはとても共感できます。
勉強することの目的、ですか。いい言葉ですね。
「こんなこと勉強しても将来役に立たない」という生徒に
この世界は数々の学問があってこそ成り立っているということを
理解してもらいたいですね。
「学習ライン」という言葉はとてもいいと思います。
改めて、冬休みを学習へ向う姿勢・態度を見直す機会として
役立ててほしいと思います。
投稿情報: | 2007/11/13 19:19
様々なご意見ありがとうございます。力づけられます!!
生徒が時々発する言葉、「〜勉強して何の役に立つんだ!」
一面ではこれほど本質的な質問はありません。勉強の目的が目先の点数や結果にばかり意識づけられているからです。生徒本人の責任と言うより子供は環境の成果ですから、そういう意識付しか勉強に対して成されていないのは確かです。だから、言葉で「〜のために必要だからこの勉強はする必要があるんだ」と言って頭(言葉)で納得させるより、わかって努力して、自ら自分の達成したことを体感できるようにして貰っています。
自分の「学習ライン」に気付けばほっといても勉強します。もちろんそれで十分と言うことはありませんし、すぐに気づけるわけではありませんが、いつか必ず気づいてくれるものと信じて関わっていきたいと思っています。
投稿情報: shimura | 2007/11/14 01:25
生徒一人一人が自分の「学習ライン」を認識すること、これが大切ですね。
見事な力説を拝読させていただきました。
投稿情報: | 2007/11/16 00:35