暫くご無沙汰してしまいました。2010年もすばやくその時を刻み、学年の変わり目が近づいています。受験生にとっては、センター試験や模試の結果で志望校との相性がより鮮明になっている時期ですね。
先日、能見台校の中2のクラスで比較のfaster,fastestがきっかけで50m走のタイムの話になり、それぞれの俊敏さについてプチ告白タイムとなりました。クラス全員がスポーツ、部活に熱心なメンバーですが、意外にも速さ=良・美とは必ずしもならないという話が展開していきました。例えば私はテニスを始めて15年になるのですが、
あるレベル以上であれば、速球には速球がカウンターで必ず返ってきます。速い返球の後、アプローチしてボレーを決めに来ている相手を、ゆっくりとした中ロブで抜いたときに新鮮な充実感を覚えます。剣道をやっている子と野球をやっている子が複数いるクラスですが、どのスポーツでもゆっくりとした柔らかい動きと、俊敏な動きの組み合わせが重要だと瞬時に合意に至りました。私だけでなく、クラス全員が、それぞれのスポーツを通して実感していることだったのです。
学習にも、さらには人生にも同じ様な事が言えると思います。物事をすばやく理解し対応する力は、この高度情報化社会では基本で、生き抜く必須条項になっているといってもいいでしょう。しかし、人がそれぞれ持っている体内スピードには人の数ほどのバリエーションがあります。私も試験のときの全体の時間配分についてや、英文の速読法について日々指導しているのですが、かといって、学習全体を通して全てに速さを最優先においているわけではありません。逆に、向き合っている子供の体内速度を見誤るとその子の良さを見過ごしてまう危険性があると自戒しています。
じっくりと向き合い、時間を掛けてあげなければならないその人それぞれの場と時があります。急いではいけない場と時に周囲の都合や何らかの事情で急がせてしまった時に子供がどうなるかは想像以上に怖いものがあります。
私は小さいときから運動が得意、本を読むのが大好き、学校の勉強も要領良く済まして後はおきまりのテレビっ子という具合でした。しかし、それが長い時間を経て万能であったという印象はますます希薄になっています。不器用であっても、もっとゆっくり一つのことに取り組み、周囲の都合に流されないのんびりとした態度が、スケールを伴った骨太の在り方につながっているということを日々痛感するのです。今はすぐに結果が求められることが多すぎて、そんな速い流れの中で、もし子供たちが表面的にしか理解していないことを人生パズルの部品にしてしまうと貧弱な完成図となっていってしまうと思います。
塾としては変な例ですが、たとえ東大を出ても、人としての幸福感が味わえない人生ならなんの意味もないと言い切れるくらいの大きな視点で、親や社会は子供を見てあげる大らかさも大切かと思います。
人生は細かい選択の集積といっても過言ではないと思いますが、その判断材料にこどもの持っている処理スピードと社会の仕組みへの適応性を考慮に入れることは重要でしょう。
例えば、中学受験をさせるさせないの判断をするときには、その子の時と場の声に耳を済ませてあげてください。対応が良い器用な子がたとえ技術的に周囲の期待に応えようとしていても、実は一番重要なのは骨太な生きる力だということ。一枚のプリントを5分以内に解くようなトレーニングのくり返しもそうした背景があってこそであり、その順番を間違えては、もし希望の学校には入れても、揺らぎやすい脆弱な人生観という落とし穴が待っているのです。
勉強は物を知る楽しさと直結していなければただの強制された作業です。それでも子供は時に親の笑顔が見たいがためだけに自分に何かを強いることがある。そうしたことを意識しているといないとでは、一つの英単語の説明をするのでも違う空気になるのだと思っています。
能見台校も生徒が増えてきて、賑やかになってきました。全員が個性的かつ素直で真面目な子達です。「生き生きとしたまなざし」これから先どんなに生徒が増えても、この条件だけは決して譲れないと思っています。能見台校 西山
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