この1年間で私の国語教育に対する捉え方は大きく変りました。昨年、學志館の国語授業という内容のブログを掲載しましたが、その当時とは変っているため今回新たに「學志館の国語授業2007」というタイトルで国語授業の方針の草稿のようなものですが掲載します。
国語授業について
国語は私たち日本人にとっては日本語のことであり、すべての教科を学習する際にも、また、日常生活を送る上でも欠かせないものです。私たちは日本語を使いものを考えます。外から入ってくる情報を受けとめ、それを外に発信して自らの行動を決定したり、人とのコミュニケーションをはかります。言葉のない状況で私たち人間が生きていくことは想像もつかないほど困難になります。三重苦の障害を負ったヘレン・ケラーが「w-a-t-e-r」という言葉を文字として認識したことがきっかけとなり
世界との交流が始り大学(現在のハーバード大学)まで卒業した実話は有名ですが、それは身の回りにあるものやことを言葉と結びつけて理解できたことの大切さを意味しています。ヘレン・ケラーにとってのその体験は国語(英語・ことば)学習の初歩の段階にあたりますが、小・中・高の生徒にとっても漢字を覚えたり、ことばの意味を知ったりすることは同様に国語学習の初歩(基礎)に相当します。
身につけた言葉を文として理解し、自ら文を書き、さらに文の集りである文章を理解し、文章を書く学習が次の段階の学習になります。
英語を学習する場合、ヒアリング・スピーキング・英単語・英文法を学習し、文章を読み、英作文を書く。これらは大学入試レベルの上位大学の入試でも目指さない限りは英文を小論のように書いたり要約したりという学習までは要求されません。つまり、英語をいくら勉強しても当分の間は日本語のように英語で考えたり英語で自分の考えを文章で表現するレベルまでは到達しません。英語学習を軽視しているわけではありませんが、国語である日本語の学習内容のレベルと比べ、それほど難しいことを考えたり表現したりはしません。
それに対し、日本語では難解な文章(小説文・論説文等)を日常的に読んだり、人とのコミュニケーションで自分の思いや考えを相手に正確に伝えることが常に求められます。
にもかかわらず、私たちは国語は日本語だから勉強しなくても何とかなると思っています。確かに入試問題を前に英語を勉強していなければ何も設問に答えられないのに対し、国語の現代文であれば0点ということはないかも知れません。
しかし、今述べた国語力は、その一部である試験問題に適切に対応できる国語力を指しています。試験問題に対しては、その対応を意識し、最も確実な解法を身につけることができます。さらには、記述問題・要約問題・大学の小論文に対して一貫とした学習によって、すべてをカバーできる国語力です。
ここでは、もう一方の国語力。私たちが日常使っている日本語としての国語力のことです。以前、高校で英語を教えていたとき、授業中に自分は英語の授業をしているのになんと日本語の方が多く口から言葉として出てくるんだろうと一瞬不思議に思ったことがあります。しかし、英語のネイティブの先生ならば、日本語はほとんど話さず、英語を使うため、生徒にとっては英語の語感・発音・イントネーション・英文の流れを全体として学習はできますが、生徒は英文に触れる時間量を授業以外にかなり確保しなくては英語がわかると言うレベルに到達することは難しい。なぜなら、圧倒的に日本語環境の中で生活しているため、外国語として学習することを余儀なくされているからです。そのためには英文法を学習し英文がどういう構造になっていて、どういう言葉同士のつながりがあるのかという基本パターンを学習することが不可欠になります。つなり、英語を学習する基本にも日本語としての国語力が不可欠であり、日本語のレベルと英語のレベルは対応しています。国語はできるが英語ができない生徒も時にはいます。その場合、英語の学習の仕方が間違っていて英語の基本が身に付いていない段階で次々と学年を進んでしまったことが原因です。そういう生徒は最初の中1・2レベルの英語から再スタートすればいいわけです。
それに対し、日本語としての国語は日本人であればもう身に付いている。漢字や言葉の意味が分らない、つまり、語彙力が乏しければ、その勉強をすればすみますが、文章を正確に理解し、正しい文章を書くためには、そのための特別な訓練が必要になります。文章を正確に理解できれば(英語以外の)すべての教科の教科書は日本語で書かれていますから他の教科の学習にも大きな影響を与えます。例えば、社会科が苦手な生徒は社会科を暗記科目だと思っています。日本語としての国語力が身につくと単なる言葉の羅列であった文章に因果関係が読み取れ、重要な項目と、その項目の説明や背景・言い換えの部分との区別ができるようになってきます。そうすると、教科書に書かれていることが立体的に関連づけられ構造的に理解できるようになります。覚えることも少なくなり、他の項目との関係もはっきりしてくるので簡単には忘れなくなります。
また、日本語で私たちは普段ものごとを考えますから、そこに筋道を辿って考える(これを論理的と言います)ことで自分自身の考え方や行動も整理できるようになり、感情にながされずに、「今、自分は何をしなくてはいけないか」や予定・計画を立てる生き方ができるようになります。
日本語としての国語力を訓練することで得られるメリットは無限にあります。自分の勉強の核としての各教科の学習を明確にし、それに留まらない世界に自らの関心の領域を広げ歩み出すことができます。
日本語としての国語力の学習の目標は以上述べた点にあります。それに到達する教材として最適と思う『論理エンジン』『論理の習得』を學志館の国語授業では全面的に導入しています。
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