昨年暮れの講師研修会で使用した、授業指針です。なぜ、今頃に?
新年度の方針を現在検討しています。その中で、実際の授業を担当する先生たちとの交流は欠かせないものであることを感じています。昨年の研修会については参加した先生たちの感想を掲載させてもらいました。各先生がすばらしい感想を寄せて頂き、形にないものを、目に見えないものを、こういう様に形あるものに少しずつ出来るのではないかと思いました。形というとテストの点数や成績、合格実績ということになりますが、それは生徒を通して現れてきたものの一断面です。教育は双方向は言うまでもないことですから、成果実績としては数字も大切なものです。ここでは、その前提となる、教える側の姿が教育方針や教育への捉え方として多少とも具体的に現れてきたのではないかと思っています。
それにきっかけを与えたのは以下に掲載した、研修会で配布した研修資料です。何かの参考になればと、學志館ブログに掲載します。
目 次
學志館の授業指針・・・・タイトル
1. 各授業の目指すところ
2. クラス授業
2-1授業への参加の仕方
2-2授業本来の姿
3. 個人授業・個別授業について
學志館の授業指針(タイトル)
學志館の塾としての存立意義は授業にあります。この授業をどのようなものとするかにより學志館の塾としての存在理由が明確になります。そのため、創立以来18年が経過した中で作り上げてきた學志館の授業をもう一度、全社員・全講師に共有し担ってもらうために明確な指針を今回、明らかにしていきたいと思います。
1.各授業の目指すところ
生徒が塾に来て学習する動機は、各教科の学習において、もっと分りできるようになりたい、受験のため、学校の授業について行けなくなった等々、生徒により様々です。入口は様々でも受入れる授業では私たちが生徒を最短に且つ効果的に将来も見据えて学力を育む縁となることです。
その目的のために、私たちはプロとして(プロとは生徒の保護者から月謝を頂き、仕事として生徒・保護者のニーズに応えること、生徒の常にMAXの状態に学習を進化させる条件になれること)生徒に関わり、生徒の学習状態をステップアップできるように先導していきます。その点において、生徒の学習状態の改善されたか否かの責任は担当する教師にあります。
では、どのように生徒の学習状態を好転し改善することができるか?
それを、学習形態に分けて説明します。
2.クラス授業
クラスとは1人でも複数人でも暗黙知を生徒の内側に築くことから始めます。塾だから勉強をさせればよいだけでは、本当に学習する力を持った生徒を育てることはできません。また、勉強だけに特化した対応では良き手本となるべき大人が将来を担う子どもたちに対し、何も示してはいないか、または、弛緩したなまぬるい、毅然とできない、頼りにならない大人像を示してしまうことになりかねません。
2-1 授業への参加の仕方
1.理由も言わず平気で遅刻する生徒はいないか?
2.授業がはじまる前にマンガを読んだりゲームをして遊んでいる生徒はいないか?(年に1回池子校でクリスマス会を始めたきっかけは、いつも勉強ばかりをまじめにしに来ている生徒たちにクリスマスの時くらい塾に来ても一緒に遊んで楽しく時間を過させたいと思ったからです。生徒が塾に来て好き勝手に遊んでいたりする状態であれば、クリスマス会などやる意味はなくなります)
3.授業中に勝手におしゃべりをし、注意しても止めない生徒はいないか?
4.机や壁に落書をしたりする生徒はいないか?
5.宿題をいつも忘れ、小テストは毎回居残りの生徒はいないか?
6.池子校では靴を靴箱に入れない生徒はいないか?
7.授業中ガムを噛んでいる生徒はいないか?
8.机の上にうっぷしたり、腕枕をしていたり、カバンを通路に広げていたり、机の上に置いていたり、椅子にだらしなく座る生徒はいないか?
上記の状態が普通の場合、塾としての教育の質は低い状態です。生徒がいくら集っても、先に挙げた塾としての存立意義に関わる問題です。問題点は2点。一つは、勉強しているんだからいいじゃないか、に対し卑近な言葉で言えば、大人や塾をなめた態度で勉強できるようになってその生徒はどんな大人になるんだ?それを許している教師にどんな責任があるんだ。二つ目は、そういう生徒は受験に失敗することが多いし、仮に受かっても高校に入って勉強はしないし伸びない。中学校での学習姿勢・態度が、その後の勉強への取組み方や生き方のベースになるから。しかし、時には勉強できて態度悪く上位校に受かってしまう生徒もいる。學志館にはいなかったが。それはまさに、ガリレオの『神なき知育は智恵ある悪魔を作る』のようである。
これらの状態を改善できるのが今年のテーマの「教育力」。それがあるかどうかが塾として問われている。そういう状態の塾があれば、それがどこであろうと教育に関わる資格問題になる。教育に関わる資格があるかどうかという問題になる。
2-2 授業本来の姿
1.生徒が遅刻したとき、「遅刻してすみません、〜で遅れました」と自分から言える。
2.授業前にはテキストを開き小テストの準備などをしている。または準備を完璧にしてきて元気に会話が弾んでいる。
3.授業中、先生の言うことに集中し、学習に取組んでいる。
4.授業が終ったら机の上の消しゴムのカスや周りのゴミがあれば拾ってきれいにして退出する。
5.宿題を忘れることは滅多になく(生徒もまだ子どもなのでたまにする場所を間違えたり、場合には忘れたりすることもあるが、それを通して生徒の状態を聞くこともできる)、小テストもほとんどの生徒は1回合格。ときどき、再テもあるが、再テも1回で合格する。
6.靴は靴箱に全員が毎回言われなくともきちんと入れてある。
7.生徒が負荷の多い授業で長い時間、一生懸命に勉強しているので、頭をリセットするためにアメをあげたりするときもある。
7の補足 アメとムチではない。子どもを手懐けるための手段として使うのではない。子どもをコントロールするための手段として「教育力」以外の手段を用いるべきではない。
こういう前提の上で授業のできる環境ができると、生徒は勉強を言わなくてもするようになり、成績もぐんぐん伸び、受験で失敗する生徒は出ない。
現在、學志館は2校体制となり、新しい先生や講師の人数も増えてきた。ここでもう一度、原点に立戻り自分たちは何を目指しているのかをしっかりと共有し共同していきたい。この共有と共同ができなければ本来の授業は學志館全体として成立せず、質の低い教育を行う塾となってしまう。はっきり言うと、それでは塾をやっている意味がないと思う。そんな塾はつぶれて当然と思う。自分は學志館は社会に対して十分な役割を果すことができる塾としたいと思っている。そのためには、授業本来の姿に學志館全体がなるように全力を尽していきたい。
では、その暗黙知とはなにか?
ナビゲート ビジネス基本用語集の解説
暗黙知とは経験や勘に基づく知識のことで、個人はこれを言葉にされていない状態でもっている。経営学者の野中郁次郎は、日本企業の研究において暗黙知をこのように定義し、形式知の対概念として用いた。例えば、個人の技術やノウハウ、ものの見方や洞察が暗黙知に当てはまる。日本企業では、個々の社員の暗黙知を形式知化し、組織で共有することによって知識を創造すると野中は主張した。 暗黙知の概念は、もともとハンガリーの科学哲学者マイケル・ポラニーが提唱した。彼によれば、人はつねに言葉にできることよりも多くを知ることができる。個人がもつ知識には、言葉で表現できる部分と、言葉で表現できない部分とがあり、前者よりも後者のほうが多くを占めている。ポラニーはこの後者を暗黙知とよんだ。つまり、野中が「まだ言葉にされていない知識」を暗黙知と考えるのに対し、ポラニーは「言葉にすることができない知識」を暗黙知と考えた。
3. 個人授業・個別授業について
個人授業は1対1。個別授業は1対2〜5。後者の授業は同学年で同レベル、同じ教材、同じ進度の授業。このように私たちは個人授業と個別授業を分けていますが、世間一般には個人授業も含めて個別授業と言い、その個別授業も学年・レベル・教材・進度はバラバラの授業を指すようです。
1対1のメリットは生徒の学習状態から学習を進められ、学校の進路にすぐ合わせなくてもよく、生徒に最適な教材を選び、教えることが出来る点にあります。生徒の学習状態からの学習は*「学習ライン」を参照。
デメリットは、生徒の低レベルのペースに引っ張られたり、生徒のわがままな状態に引きずられて授業を進めてしまうことです。生徒の依存心や甘えを助長してしまい、生徒本人が育むべき学習姿勢の観点からは逆効果となり、当然一時的な学習成果は得られても本来的な学習力は育めないことになります。
教育はよく植物の生長に例えられます。植物が育つように水をあげ、日に当たるようにし、雑草が出ていれば取り除き、すくすくと生長する環境を整える。つまり、私たちは子どもが成長するための良い縁・条件である必要があります。私たちが良い縁・条件であれば子どもの内側にある良い資質を引き出すことが出来ますし、逆に悪い縁・条件であれば子どもの内側にある悪い資質をひきだし、増長させてしまうことになるかも知れません。そうなるか否かは、子どもに関わる私たち次第と言うことになり、それに気がつくと無為には子どもたちには関われないことになってしまいます。
では、どうしたらよいのか。それは、私たち自身が人間として常に進化していなければならない。生徒たちと比べて、自分は何でも分かっている、子ども相手だから自分の方が上だという意識では、*暗黙知の面では薄っぺらな大人になってしまいます。子どもに関わる以上私たちは常に人間として進化し続ける必要があります。教科内容の進化は当然として、人間としても。
教科内容への揺るぎない自信は、教材研究を通して自分の担当する教科への深く幅のある知識と経験に基づくように、人間としての自信は自ら自身への進化を探求する姿勢を常に持ちつづけることから生まれます。
そういう意味で教育に携わることは自らを進化させる絶好の機会と言えるかも知れません。勉強できない生徒、言うことを聞かない生徒、教えてもすぐに忘れてしまう生徒等々。少し教えればすぐに伸びる生徒はまれでほとんどは学習に行き詰まりを感じている生徒です。その生徒の学習環境を整え、土地を整地するように根を深く掘り、栄養を与え辛抱強く見守る働きが私たちの仕事であれば、これほど困難な仕事はなく、だからこそ却ってこれほど自らを成長・進化させる機会はないと言えるかも知れません。
そういう視点に立ち、生徒・子どもたちに関わって頂きたいとお願いします。
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